パン!と、突然手を叩かれ、僕はハッとした。目の前に彼女の顔があった。

「ねぇ、大丈夫です? 退屈な話でしたか? なんかごめんなさい?」

僕は何度かまばたきを繰り返した。
寝て…いた?
夢から覚めたばかりのように、頭がまだボーっとしている。彼女からアロマテラピーの話を聞いていて、急に眠くなって…。今のは? なんだったんだ? 夢と現実がごっちゃになったような、意識を失ったような状態だった。

「あ、すいません。あれ?僕、寝ちゃってました?」
自分でもまったく意味がわからず、彼女に尋ねていた。
 
うーん、と小首をかしげながら彼女は言った。
「なんだか気持ちよさそうにウトウトしてましたよ? 天気もいいし、お日様がポカポカ気持ちいいですからね? 眠くなっても仕方ないですよ? やだ、なぁに、そんなに申し訳無さそうな顔しなくていいんですよ。なんとも思ってないですから。ほら、入学式で疲れちゃってたんじゃないです? 慣れないことが始まる時は、自覚していなくても体は疲れを感じているものだから。体がお休みしたい、って合図を出してるの。体は心よりも正直だから」
 
彼女は笑顔だった。安心感を与えるような優しさが滲み出ている。怒ってはいないようだったので、僕はひとまず安心した。
 
「でも、聴いてくれてありがとう」
そう言いながら、彼女はすっと立ち上がった。ひらり、と黄色のフレアスカートが揺れ、一瞬太ももが大きくチラついた。ストッキングを履いているのだろうか、陽の光を受けた太ももがキラキラと輝いている。情けないことに、僕はそんな観察をしてしまっていた。女性の脚、とくにパンスト脚に目がないのだった。

パンスト脚を見ていたことを悟られぬようにわざとらしく伸びをしながら、まだはっきりしない意識で、僕は彼女を見上げた。
「一応、チラシ渡しておきますね。時間があったら読んでみてくれますか? 今話したこと以外にも、色々書いてあるから」
そう言いながら、彼女は踵を返し、ゆっくりと歩み去っていく。

ジジジ、と頭の中で脳が焼け付くような音がした。呼び止めろ、と僕の本能が命令を出していた。その声に従うように、僕は慌てて上ずった声を出す。

あの、と叫んだものの続く言葉が浮かばない。彼女は立ち止まり、首だけ振り返って僕を見つめる。しかし、その目は先程までとは少し違っていた。ゾクリ、と恐怖を感じるような冷たい視線だった。その強い視線に、僕は射抜かれたように凍りついてしまった。

「何か?」
「あ、いえ…その…」
僕が返答に窮していると、彼女はニッコリと優しい笑顔を見せた。

「楽しい大学生活になるといいですね。お疲れさまでした」
僕の方にすっと人差し指を向けたままそう言い残し、彼女は別棟の方向へ去っていった。

彼女を見送ったあと、僕はベンチの上で脱力した。なぜだかどっと、疲れが湧き上がってきた。ただ座って話をしていただけのはずなのに、まるで100mダッシュを繰り返した後のような疲れだった。緊張感が少しづつ解れていく。それにしても、いったい何だったのだろうか。話を聴いているだけで寝落ちしたことなどなかっただけに、奇妙な体験だった。

そこでふと、何か違和感を感じた。何かがおかしい。僕は自分の体をまさぐった。そして違和感の正体がわかり、青ざめた。下半身がひんやりと生温かい感触に包まれていた。パンツが濡れて不快感を感じていたのだ。

えっ、と思わず口に出していた。小便を漏らしたのかと、飛び跳ねそうになったが、そうではなかった。周りに人がいないのを確認し、ズボンの脇からパンツの中に手を入れる。
パンツにできたその染みを手で掬い取る。白い液体が手にベットリと付いている。いつもの精液よりも匂いが濃い。

射精…していた…?

その事実にショックを受けた。「夢精」という言葉が思い浮かぶ。その存在は知ってはいたが、いままでに経験はない。してみたいとは考えていたが、まさかこのうたた寝で夢精したのか? 話を聞いて、まどろんでいる数分の間に? 疑問が次々に沸き起こるが、回答は出なかった。

股間の感触がとにかく気持ち悪かった。トイレへ行って、パンツを拭かないと…。拭くだけで済むかな、脱いで捨てて帰らないとだめかもしれない。なんとか冷静になり、立ち上がる。スラックスにはまだ染みてきてはいなかったが、時間の問題だろう。せっかく入学式の為に買ってもらったスーツを精液などで汚すわけにはいかない。

なるべく肌とパンツがつかないように、珍妙な姿勢になって歩き始める。学生課に行かなければならなかったのも思い出す。スマホを取り出し、時間を確認する。

えっ、と思わずまた声を上げてしまった。スマホの時計は16:00を示していた。先程ここに座った時は、確かに15:20だった。30分以上も彼女と話し込んだことになる。そんな筈はなかった。彼女は「5分だけ」と区切り、話を聴いてほんの数分眠ってしまったとしても、10分も経っていないはずだ。時間の感覚がグラグラと揺らぐ。彼女が言ったように疲れが溜まっているのだろうか。考えを巡らせるうち、ふと、もう一つショックな事に思い至り、ゾクリとした。

彼女は去り際に、僕を確かに指差した。そのジェスチャーが何を意味するのか、あの時はわからなかった。だが、指先は僕の顔を指すというよりも、僕の下半身を指差していたように思えたのだ。

「お疲れ様でした」

彼女の言葉が浮かぶ。彼女は僕の射精を指摘していた…? 匂いでバレたのか? それとも勃起でもしていたのか? そのあまりにも恥ずかしい事実に、僕の頭がカッと熱くなる。入学早々、なんて情けないスタートなのだろうか。遠くから響く学生たちの喧騒は、僕を嘲笑っているかのようだった。



自宅に帰り着き、入学式用に新調したスーツを脱ぐ。スラックスを脱げば、その下は裸だった。昼間、精液で汚してしまったため、大学のトイレでパンツを脱ぎ捨てたのだ。まさかノーパンで帰ることになるとは、なんたる情けない入学式。一生、忘れられないだろう。そのまま脱衣所で裸になり、シャワーを浴びた。

シャワーから上がり、寝間着用のスウェットに着替える。夕飯のコンビニ弁当を食べながら、バッグを開ける。バッグの中には、大量のサークル勧誘チラシとともに、学生課で受け取った封筒があった。中を開けると、学生証が入っていた。結局、受け取り時間を大幅に過ぎて学生課に向かった僕に対し、中年の職員は憮然とした顔でいった。
「入学で浮かれているのはわかるけど、時間を守るのは社会人のルールだよ」
僕は平身低頭で頷きながら、この封筒を受け取った。職員はこういった学生の応対に慣れているのか疲れているのか、それ以上は何も言わなかったが、僕が帰ろうとしていると、「それから」と続けた。
「他の学生にも注意してるけど、この時期はサークルや同好会を装った宗教とか学生運動とか、そういった団体もあるから、じゅうぶん気をつけて」
はい、といって僕は職員に頭を下げた。「気をつけます」といって、その場を後にした。

テーブルの上にサークル勧誘の大量のビラを置く。さすが大学だけあって、多種多様なサークルがあるようだった。一枚一枚見ていく。中学から続けているテニスを大学でもしたいと思っており、どこか良さげなテニスサークルはないかとチラシを漁る。いくつか候補を見つけ、それぞれのサークルの新歓コンパや説明会の予定をスマホのスケジュールに追加していく。部室で説明会を実施しているサークルもあり、明日以降、講義の合間にでも顔を出してみよう。

そして、それらを脇に寄せ、目当ての一枚を取り出す。昼間、あの名前も知らない彼女から受け取った「アロマテラピー研究会」のチラシだった。じっくり読んでみると、彼女が語った通り、有名人も傾倒しているという一種の芳香療法の類らしいとわかった。美容や健康と結びつけ、「女子力アップ」などという最近よく目にする言葉も散りばめられている。

やはり自分には向いていないし、入会するつもりはまったく無かったが、あの美しい女性にはもう一度会いたいとは思ってしまう。ただ、彼女の前で夢精したことを思い出すと、二度と顔を会わせたくないのも本音だった。

ただ、と思い直してベッドに寝転び、スマホを開く。頭の片隅に残っているモヤモヤとしたものを解決しないことには眠れそうになかった。

「夢精」検索

男性が睡眠中に射精に至る現象をいう。男性が睡眠中に性的な内容の夢などで性的興奮し、数分間勃起を持続し、性的興奮が頂点に達すると射精する現象。

どうやら、自分が昼間経験したのは間違いなく夢精のようだった。彼女とのやり取りのうちに、何か勃起を促す要素があったのだろうか。あれほどの美人だ。自分の下半身も知らず知らず反応したのかもしれない。それに、入学準備で何かと忙しく、ほとんどオナニーをしておらず、精液が溜まっていたのだろう、不幸な事故だと自分を納得させる結論を出す。

さらに検索画面に戻し、自分の大学名の後に「アロマテラピー研究会」と入れて検索を掛けた。

検索トップにそれらしきものがすぐに出てきた。

●●●大学 アロマテラピー研究会

大きく胸が弾む。一方で、開いてはいけない扉を開くような危機感が湧き上がってもいた。ここから先に踏み込んではならないと、本能が警告している。だが、無意識のうちに脳裏に浮かんだのは、あの美しい女性だった。本能よりも無意識に突き動かされるように指を操作し、その検索結果のページを開く。薄いピンクで統一された、「アロマテラピー研究会」のブログだった。

ごく簡単なブログだった。活動内容の報告やサークル員の日記など、楽しげな印象を受けた。かなり頻繁に更新されているようで、今日付の日記も書かれていた。新入生へ向けたメッセージのようだった。さらにスクロールすると、サイト内に「サークル員紹介」という文字がある。ドキリ、と心臓が跳ね上がるのを感じた。あの彼女がそこにいる確信があった。

震える指先で、スマホをタップする。まず目に飛び込んできた彼女の笑顔に心臓が高鳴った。

アロマテラピー研究会・会長
文学部3年心理学科
白石玲奈

その名前を見ただけで、僕の心臓はバクバクと激しく鼓動した。耳がカァっと熱くなった。

白石さんというのか…。僕は、写真の彼女からしばらく目が離せなかった。眼力の強い目、スラリとした鼻立ちにぽってりとした魅力的な唇。少し前の写真だろうか、髪型は今より少し長い気がした。それがわかるくらいに、彼女の印象は僕の脳裏に深く刻み込まれていたようだった。

昼間のやりとりが回想される。あの数分間に戻ったかのような錯覚を抱く。彼女の話と声に聞き入った自分。美しい顔立ち、匂い、透き通るような白く長い脚、テラテラと光るストッキング、揺れる胸…めまぐるしく彼女の姿形が浮かぶのは、走馬灯という表現がぴったりだった。彼女と過ごした時間のすべてがまざまざと思い出せた。彼女が言ったように、僕の「5分間」は完全に彼女のものになっていたのだ。

ギチ…ギチ…と、オチンチンが痛いほど勃起してくるのを感じた。寝間着用のスウェットの下、トランクスの中で窮屈そうにオチンチンが蠢いている。疼いている。彼女…白石玲奈さんに対して、そのような性的な感情を抱くことに、罪悪感があった。しかし、下半身は本能に忠実なのか、正直に彼女による刺激を求めていた。

もはや、一枚一枚脱ぐのも面倒で、一気にスウェットとトランクスを脱いで下半身を露わにした。ブルン、とオチンチンが弾け出る。ギッチギチに勃起したオチンチンに血管が浮き出て、エグいくらい凶悪に、最高潮にフル勃起している。もはや鎮めなければ、収まりようがない痛みすら伴っていた。

スマホの中の白石玲奈さんの写真を見つめながらオチンチンをゆっくりと触り始めた。触った瞬間、「これはヤバイことになる」と察した。今日会ったばかりのほとんど何も知らない女性で性欲を処理しようとしている、その背徳感がいっそう興奮を高めた。

まるで彼女にしてもらっているような妄想をしながら、撫で回すように、自ら焦らすようにオチンチンを触っていく。しかし、それももどかしく一気に握り込む。熱い。固い。気持ちがいい。触り慣れた自分の性器の筈なのに、いつもとまったく感触が違う。スマホを枕の上に置き、彼女に覆いかぶさるかのように、腹ばい姿勢になる。セックスの経験はなかったが、セックスをしている気分だった。

スマホの中で微笑む白石玲奈さんの笑顔を見つめ、激しくオチンチンを擦り上げる。こすりながら、上着を脱いで全裸になった。実家での家族に見つかるかもしれないという恐る恐るの自慰行為ではなかった。一人暮らしとなった今や、自由にオナニーを楽しむことができるのだ。全てを脱ぎ捨てた開放感が、また興奮を高める。変態なオナニーをしている自覚がますます性欲を湧き上がらせる。

オチンチンを絞り上げながら、口からは自然と彼女の名を呼んでいた。

「はぁ…はぁ…白石さん…はぁはぁ…玲奈さん…」

名前を呼ぶと、オチンチンがいっそうビクビクと跳ね上がった。気持ちいい…気持ちいい…スマホ内の彼女は微笑んでいる。

「白石玲奈さん…」

そう、呟いた瞬間、ビクン、と脳と心臓とオチンチンに電流が走った。ゾクリと冷たいものが背筋を走り抜けた。この感覚を僕は知っている。クラクラとした目眩に似た感覚。と、同時に、脳内には津波のように大量の情報が流れ込んできた。

時間が逆流するかのような感覚とともに、今日一日の出来事が回想され、ついには目の前に昼間の大学の光景がパァっと浮かんできた。目の前に、彼女がいる。白石玲奈さんがいる。僕は、自分の身に何が起こったのか、自分が白石玲奈さんに何をされたのかを、すべて思い出した。僕は、白石玲奈さんに催眠術を掛けられたのだった。